ま え が き  ~ 『産業技術史事典』より
 私たちの「日本産業技術史学会」が発足したのは1984(昭和59)年である。学会は、梅棹忠夫さんが提唱した「国立産業技術史博物館」の実現を目指していた。当時、初代会長として学会の設立と運営に当たられ、博物館開設のための調査研究沽動をリードしたのは吉田光邦さんである。吉田さんは、同時に、日本の産業技術史を俯瞰する『日本産業技術史事典』の刊行を構想されていた。
 この両者が相互に密接な閑係にあったことは明らかである。「産業技術史博物館」の目的は、日本の産業技術に関する実物資料や文書貸料を収集し、それらに基づく研究を実施し、「日本の近代」の理解において不可欠でありながら、従来必ずしも系統的・組織的に実施されてこなかった日本の産業技術史研究を振興して成果を蓄積することであり、さらに、それらの成果を、資料共々にひろく社会に提示することであった。また、『産茉技術史事典』は、その刊行時点における、日本近代の産業技術史的側面を系統的に提示するものであり、同時に、博物館における資料の収集・分析・展示等の沽動の基礎となるものである。いわば、組織・機構としての博物館と、「コンテンツ」の基礎としての事典とは、相互に不可分な関係にある。
 発足当時の学会の沽動のかなりの部分が、「国立産業技術史博物館」の実理を目指す調査研究活動に割かれていた。事典の編集・刊行という仕事までは手が回らぬ繁忙な活動が続くなか、1991(平成3)年に吉田さんは急死された。その後、経済情勢が変化し、国家や自治体の財政も悪化した。そして、多くの会員の努力や、経済団体や白治体の協力にもかかわらず、「国立産業技術史博物館」はまだ実現していない。現在、この問に寄託あるいは収集されて、仮収蔵庫に保存されている貴重な機械器具などの実物を含む大量の産業技術資料が存在する。それらの劣化と散逸を防ぎ、活用の道を探ることが急務となっている。他方、事典についても、その編集と刊行が決して容易ではないことを私たちは認識していた。しかし、2004(平成16)年の学会設立20年をむかえ、2000年12月に開かれた理事会で、設立20周年の記念事業として事典の刊行を行うことを決めた。そのさい、現在の困難な出版事情にもかかわらず、学会誌『技術と文明』の印刷・発行元である思文閤出版は、事典の出版に積極的に対応する意向を示された。翌2001年の学会年総会における了承に基づき、編集委員会を構成して作業に入ったのは、2001年11月22日であった。編集と執筆については、原則として学会員があたることになったが、作業を開始すると、学会員以外の方々のご協力を仰がなければならないことが直ちに明らかになった。学会に力を貸し、ご協力くださった方々には、心からお礼を申し上げたいと思う。
 同時にそれは、学会にとっては、その枠を超えて多くの方々との協力を拡げる機会であった。現在、産業記念物の保存や活用に関する理解が進み、白治体や企業が設立・運営する資料館・博物館が増加しつつあるといわれる。それらの問の協力を拡大し、全国的な博物館活動のネットワークが形成されることが期待されている。この事典が、この分野の学術研究の基盤となるだけでなく、そのような活動に役立つことを私たちは強く望んでいる。  事典の編集にあたっては、対象である産業技術史自体が多面的で複合的な存在であることを考慮して、日本の産業技術史において不可欠な大項目をまず選定した。それぞれの大項目について適任の担当者を選び、当該分野に関する総説の執筆、小項目とその執筆者の選定と取りまとめを委嘱した。総説中にゴシックで指示した用語を「小項目」とし、それぞれに基本的な参考文献を付した。このような方式を採用することで、個別項目に関する知識を分野全体の展望との関連において示そうとした。通常の辞書としての利用のためには索引が役立つであろう。
 歴史研究では、個々の研究者の歴史観に基づく多様な解釈と記述が重視されなければならない。したがって、事典としての統一性に留意しながらも、各大項目の担当者の個性を可能なかぎり.尊重した。
 なお、事典が対象とする時期と領域に関して、その範囲をいかに設定するかという問題がある。
 扱うべき時期については、原則として幕末・明治初年から1980年までとした。もちろん、テーマによっては、その前後の時期におよぶことは避けられない。その根拠は、端的にいうと、「日本における近代工業の成立と定着の時代」を中心に扱ったということである。1980年以降については、歴史としての扱いが困難であるというだけではなく、マクロな産業構造と個別産業を支える技術の性格の双方において、新たな段階に入ったと考えられる。したがって、編者のひとりによる「やや長い総説」のみを記載した。
 もっとも腐心したのは、「大項目」としてとりあげるべき分野の選択と配列である。それぞれの産業には複数の技術分野が含まれており、個別の要素技術を重視すれば産業としての性格は後退する。議論を重ねた結果、私たちは、ある種の折衷的な選択と配列に落ち着いた。「道具」「機械」「素材」など、要素技術が表面に出る生産手段としての側面を重視する大項目から出発して、次第に産業としての性格が前面に出て技術の複合性が強まる分野へ進み、さらに、消費や生活に近接したテーマにおよぶ。そして、最後に全分野に共通する「技術者教育」「研究開発機関」などを配したのである。
 さらに、事典編集における立場・方針にかかわる重要な問題が存在する。従来、近代日本の産業史や技術史を扱う際、近代化を主導してきた国家の役割に重点が置かれ、政策史の比重が増大するという傾向があったと思われる。「急速な上からの近代化」として日本の近代をとらえるという広く行われてきた手法によるかぎり、それは不可避であったといえるだろう。しかし、近代化以前からの「草の根」における技術と技能の蓄積に対して光をあて、民間の「現場」の力をより重視するような編集方針を、それほど明示的ではなかったにせよ、私たちは採用した。吉田光邦さんは、技術における工芸的要素と伝統的職人の役割に対する関心と造詣が深かった。私たちは、吉田さんに比べると、はるかに「近代主義者」であるが、編集にあたって念頭にあったことは、日本産業技術史をいささかなりとも、草の根の人々の営みに近づけたいということであった。
 その結果として、土木・都市計画、兵器生産などの分野を大項目としてはとりあげないことにした。土木・都市計画は、国家等の公的セクターが直接の当事者として登場する「事業」というべき分野である。兵器生産も、軍工廠等の直轄部門はあるものの、機械・製鉄・造船・運輸などの各分野が支えてきたといえる。結局、これらの分野については、可能なかぎりにおいて、他の大項目に分散させて扱った。
 予想を超えた現下の「大学改革」の影響、すなわち大学の管理運営業務の増大による研究者の繁忙によって、当初の目標であった2004年刊行は実現せず、2年も遅れる結果となった。編集と執筆にあたられた学会の内外の方々、とくに当初の計画通りに執筆してくださった方々には、この機会に心からお礼とお詫びを申し上げる。なお、編集委員会のメンバーとして、大項目「繊維と衣服」を担当され、重責を果された内田星美さんが不慮の事故で逝去された。謹んでお悔やみを申し上げたい。また、私たちの無理な願いに応えて内田さんのお仕事を引き継いでくださった玉川寛治さんには、心からお礼を申し上げたい。さらに、編集委員会の事務局として、多数の執筆者との連絡・調整等にあたられた廣田義人さんの活動なしには、本書の完成はありえなかったであろう。
 またこの間の困難な出版事情にもかかわらず、出版を快諾された株式会社思文閤出版、同社編集部にあって私たちの遅れがちな作業を辛抱強く見守られ、面倒な編集作業に従事された林秀樹さんと立入明子さんには、とくに深く感謝する次第である。
   2007年5月                                  『日本産業技術史事典」編集委員会(文責:後藤邦夫)