本学会の成立ちと意義   /  中岡哲郎(元会長:1992~1997)

 日本産業技術史学会は、1981年3月、梅棹忠夫、上田篤、吉田光邦、三氏を世話人として結成された「産業技術史研究会」が母体となり、1984年7月14日に、 日本産業技術史学会として創立されたものである。当初は、国立民族学博物館をモデルに、博物館であると同時に国際的研究機関でもある、 「日本産業技術史博物館」の創設を目標に、各分野の技術史研究者が、吉田光邦初代会長の下に結集した学会の性格が強かった。
 1989年末から始まったバブル経済の崩壊と、日本経済の深刻な長期低迷の中で、文部省はそれまで追求してきた大型研究機関建設路線から撤退を図る。 博物館の関西への誘致に熱心であった財界も手をひき始める。最大の打撃は、吉田光邦初代会長が、外遊中に発病され1991年7月亡くなられたことであった。 私は学会副会長として、吉田さんのお供をして各方面をあるいた関係で、第二代会長となったが、吉田さん梅棹さんのように、政財界に影響を与える器量は全くなく、 その時博物館建設運動は終わった。
 それでも、学会はこの初期の運動を通して収集された、数々の産業技術史資料の保管に責任をおいつつ、日本産業技術史の研究を進めるという責務を負っていたのである。 もともと、工学系の学・協会では技術史の分科会が置かれることが多いが、そこでの関心はその分野の技術に限られ、産業全体の中での諸分野間の関係にまで及ぶことは少ない。 また、我が学会より少し早く出発した「日本産業考古学会」は、記念物として残された機械や設備を資料として、技術の歴史を追うことに独自領域を見出している。 また我が学会よりあとに出発した「科学・技術・社会論学会」は、科学と技術の一体化が著しく進行した現代の「科学・技術」と社会の関係に関心が絞られている。
 こうした関連諸学会との間に適当に距離を置いた交流と連携を維持しつつ、産業という人間の経済活動の中での、技術の役割と歴史を研究するという課題を、 私を含め歴代の会長は、学会の独自領域として追求してきた。学会には学会賞の制度があるが、この賞を受けた人々が現在の第一線の研究を担っている姿を見るにつけ、 そうした人々のあとを継ぐ若い人が、学会に関心をもってくれることを期待したい。